北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)

父祖の体験です! 忘れないで下さい! 子孫に伝えて下さい!

新 2022年2月24日ウクライナはロシアに侵攻されました!1945年8月9日の日本と同じです! 不可侵条約を結んでいるのに、ソ連軍は日本軍が守備していた満州の国境線を侵攻し、次いで、終戦後に日本の固有の領土の千島列島が強奪されました!

不可侵条約を結んでいる国でも、平気で攻めてきました!
戦争に負けたことを受け入れていても、武力攻撃してきました!
日本固有の領土を守っていた兵士でも、他国に連行されて強制労働させられました!


戦いの概要及び意義

 日本国は1945年(昭和20年)8月15日の天皇の詔勅により、すべての戦争は終わったと思われていますが、事実はそうではなかったのです。日本の固有領土の一番北の端であった、北千島の占守島(シュムシュ島)で戦争が行われていたのです。(図・写真 千島列島 参照)


 終戦を迎えた8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が突如、猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのでした。やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し、自衛戦闘を行ったのです。戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名におよび、日本軍が有利な状況で、上陸部隊を殲滅する体制でしたが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、上級部隊からの命令で、8月21日に戦闘が終結した、日本軍最後の戦です。

 この戦いのことを、ソ連政府機関紙イズベスチアは「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べています。

 なぜ、終戦三日後にソ連軍は強襲上陸進攻を強行したのでしょうか、終戦までこの地域では、陸上戦闘こそありませんでしたが、この頃の日本軍は本土防衛のための兵力転用が行われていました。この移動のための輸送船や舟艇等に対する砲爆撃、及び、千島列島に配備された日本軍に対する砲爆撃は米海軍によって行われ、終戦三日前の8月12日には、配備変更のため温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。このように米軍の戦闘実績のある千島列島であり、また、いかにヤルタ会談での秘密協定で千島列島をソ連に引き渡すという米・英国の言質を得ていたとしても、カイロ宣言に違反する行為である日本固有領土の千島列島を米・英国がソ連に引き渡すということを、ソ連は米・英国が本当に実行するか否かは疑問を持っていたに違いありません。そこでソ連軍は、自ら戦闘により、即ち血と肉で千島を占領して、千島列島の占領を確実なものにしようとして、日本国がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく準備して、奇襲上陸をしてきたものと思われます。また、その後にソ連が米国に対して行った北海道の分割統治の要求を行ったという事実からみると、千島侵攻がうまく行けば一気に北海道まで侵攻しようとする意図があったものと思われます。この点から考えると、この占守島の戦いによりソ連軍の千島列島の占領は遅滞され、その間に米軍の北海道進駐が完了したので、ドイツや朝鮮半島に見るような北海道の米国・ソ連による分割統治は避けられたのであり、日本としては大きな意義のある戦いでした。

 しかしながら、この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、数年にわたり給養の悪い状態で強制労働に従事させられたのでした。そして、その1割の兵士は、栄養失調と疲労のために亡くなっているのです。

 戦争が終わったのに、その三日後に不本意ながら戦って戦死した方々、終戦後も不法に長期間にわたってシベリア等の極寒の僻地で強制労働に従事させられた方々、そしてその地で亡くなられた多くの方々、この様な方々がおいでになった事は日本人として決して忘れてはなりません。

千島防備の歴史

戦闘の経過

戦闘終了後の状況

占守島戦史に関係する挿話等 

 大砲を肩に担いで

 北千島占守島における砲兵部隊の活躍

 占守島第九十一師団の心遣い

 シベリア抑留の思い出

慰霊の状況

占守島の戦いの教訓


ホームページ作成に使用した参考資料

北方領土の歴史(内閣府資料)

北方領土の国際的取り決め(内閣府資料

              

その他の関係リンク

 千島列島の詳細(ウィキペディア フリー百科事典)

 靖国神社

 北鎮記念館(陸上自衛隊旭川駐屯地内にある北の守りに関する資料館)

 いち兵士の記録(占守島防衛戦)

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文責 山 本 晃 三

(占守島守備部隊戦死者の遺族)(1934年生れ)  

2006.8.11 作成 2010.8.11 補正 2022.8.06 補正