北千島占守島における砲兵部隊の活躍

 北千島占守島の戦いは、日本が終戦を迎えた昭和20年8月15日の3日後の8月18日に、ソ連軍の強襲上陸による攻撃で開始され、やむなく日本軍は自衛戦闘を戦いました。この戦いは日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名で、日本軍がソ連軍を海岸に追い詰めていた有利な状況であったのですが、日本国がポツダム宣言を受諾していたため、上級部隊からの命令で8月21日に戦闘を終結した、日本軍最後の戦いです。

 日本軍はポツダム宣言受諾により、自ら武装解除の準備をしていた最中にソ連軍の奇襲上陸を受け、あわてて武装を整え直し、戦闘を行ったという状況にもかかわらず、このような有利な戦闘を進めたれたのは、日頃から周到な準備により堅固な陣地を構築をしていたことと、占守島所在の全日本軍が協力一致して、この不当なソ連軍に立ち向かったのが、大きな理由ですが、この中で特に砲兵部隊の活躍ぶりは目覚しいものがありますので、その活躍の一端をご紹介します。

 占守島の配備は、当時の日本の戦局の困難さを反映して、当初の戦力が逐次に他方面に抽出され、戦力は半分程度に減っていました。そのため当初計画していた占守島上陸敵部隊の水際撃滅の計画は変更され、占守島の南に位置している幌筵島との間の幌筵海峡の港湾施設を防備するのが主要な任務になりました。このため、砲兵もその大部分は占守島南部地域に展開し、北部地域は一門づづ各重要な拠点に配備されるという体制になっていました。ソ連軍の主力が上陸した占守島北端地区(竹田浜)に対応できる砲は、國端岬に配備された野砲1門、特殊臼砲1門、速射砲1門と、小泊岬に配備された特殊臼砲1門と速射砲1門、及び、四嶺山付近に配置された重砲2門のみであったのです。

 野砲隊は十分な準備により良好な地形を利用して堅固な洞窟陣地を構築し、ソ連軍の上陸を察知するや、その上陸船艇に砲撃を浴びせ、野砲1門でソ連軍が上陸に使用した全艦船合計54隻の30%に及ぶ上陸用舟艇13隻、輸送船3隻の計16隻を撃沈又は擱坐させたのです。この時、野砲の発射速度は通常1分間6発のところ8発撃てるように工夫し、他の砲兵隊(臼砲隊等)による弾薬補給の業務援助もあり、十分な弾薬の補給ができたので、陣地内に空薬莢があふれて、行動に支障を来たすほど打ち続けました。また、接近するソ連歩兵部隊に対しては、密接な歩兵部隊の援護や、自らも榴散弾の零距離射撃を行ういった近接戦闘によりこれを排除し、任務を全うしました。上級部隊では8月20日に、ソ連軍との停戦交渉が始まりましたが、連絡不能のため、この部隊は野砲を撃ち続けていましたので、停戦交渉に困難を来たし、砲兵連隊長自ら戦闘停止の命令を伝えに来ましたので、8月20日の夕刻やっと射撃を中止しました。正に日本軍で最後まで戦ったのが、この野砲隊を基幹とする國端岬の日本軍だったのです。

(活躍した三八式野砲の諸元)

(陸軍火砲写真集編算委員会編「陸軍火砲の写真集」よりコピー)


(平成7年度遺骨収集団が撮影した国端崎野砲陣地の全体写真のコピー)

(平成7年度遺骨収集団が撮影した国端崎野砲陣地の正面写真のコピー)

(平成7年度遺骨収集団が撮影した国端崎野砲陣地射界の写真コピー)

(平成7年度遺骨収集団が撮影した国端崎野砲陣地内部の写真のコピー)


 臼砲隊が使用した特殊臼砲は当時の秘密兵器で、弾丸は口径33cm、長さ150cm、重量300kgで射距離は最大1,500m、破裂穴直径20m、半径約500mの円周内に破片が飛び散る、という大きな効果をあげられる砲でしたが、通常の砲身は無く、木製の発射台と鉄製の発射筒を組み立て、この中発射筒の中に発射薬を装填し、これに組み立てた砲弾の後尾部を被せて発射するという兵器で、隠密裏に手作業で発射準備ができるというものでした。國端岬付近に配置された臼砲隊は事前の準備が十分にできていましたので、この大口径弾をソ連軍の上陸時にその上陸地域の真ん中付近に弾着させました。ただ、発射準備に時間が掛かるのと、終戦詔勅で弾丸の格納を進めていたため、弾薬の準備ができず、1発だけの発射に止まりました。小泊岬付近に配置された臼砲隊も同様に1発発射しました。共に1発だけの発射でしたが口径32糎の威力は大きく、ソ連軍に心身共に大きな損害を与えたことは間違いありません。休戦後すぐにソ連軍がこの大口径の重砲を探しに来ましたが、大砲が無いので探しまわり、この発射台を見せてやっと納得したという話があります。国端崎の部隊は臼砲弾発射後、野砲隊と合流し、野砲弾薬の補給や小火器による陣地防備に従事し野砲部隊と共に最後まで戦いました。また、ソ連軍上陸を最初に発見したのは、この部隊から國端岬の監視所に監視要員として派遣した兵士でした。この兵士が國端岬の各守備隊を起し回ったので、各隊の戦闘が可能になったのでした。

(活躍したマル九臼砲の模型「岡山県護国神社内の大隊慰霊碑側に建立」及びマル九臼砲の諸元「独立臼砲第18大隊第1中隊段列長富田三郎氏作成」)

(マル九臼砲に改良前の98式臼砲の諸元)

(陸軍火砲写真集編算委員会編「陸軍火砲の写真集」よりコピー)



 国端崎の速射砲隊はその1門を國端岬の最先端部付近に陣地を構え、上陸するソ連軍の兵員・火器のに猛射を浴びせ、戦果を挙げましたが、撃ち過ぎたため複座不能(砲身が元の位置に戻らない)になったので、砲を破壊して、野砲隊に合流し、臼砲隊と同様に野砲弾薬の補給や小火器による陣地防備に従事し、野砲隊と共に最後まで戦いました。小泊岬の速射砲隊は掩蔽壕を利用して敵と交戦し、敵に大きな損害を与えていましたが、敵に包囲され全員自爆しました。

 (速射砲は砲種不明のため写真は掲載しません)

 重砲隊は四嶺山の南側に10cm加農砲1門と15cm加農砲1門の陣地を構築し、敵上陸部隊の打撃を与えるように準備すると共に、15cm加農砲にはカムチャッカ半島のロパトカ岬にソ連軍が配備している重砲4門に対応するよう準備していました。しかし、この15cm加農砲は50kgの重量の弾丸を26kmの遠距離まで射撃できるという当時の最新兵器で、機密扱いされていたため、終戦の詔勅が下されると、すぐ射撃諸元表等の機密書類は焼却してしまいました。ソ連軍が上陸を開始すると、ロパトカ岬のソ連軍重砲が射撃を開始してきたので、濃霧のため観測困難でしたが、15cm加農砲の小隊長は覚えていたロパトカ岬のソ連軍重砲に対する射撃諸元により射撃を開始しました。しかし1門だけの同一諸元での射撃では効果が薄いと判断し、射距離と射撃方向を少しずつ変化させて地域射撃の効果が得られるような方法で射撃を継続しました。これにより我方の射撃の効果が現れ、ソ連軍の重砲射撃の間隔が長くなり、遂には我砲弾がソ連軍の火薬庫に命中しました。折から霧が薄くなってきたので、この爆発音と火炎が上がるのを我観測所で確認しています。この結果、それ以降はロパトカ岬の重砲は一発も射撃してきませんでした。この重砲はわずか1門の砲でソ連軍の4門の重砲を壊滅させたのです。10cm加農砲はロパトカ岬を射撃するには射程が不足するため上陸部隊に対して射撃し、多大の損害を与えました。

(活躍した96式十五糎加農砲(平成17年9月の現状)の側面・正面写真)

(96式十五糎加農砲の諸元)

(陸軍火砲写真集編算委員会編「陸軍火砲の写真集」よりコピー)



 また、この地域には2門の高射砲が配置されていましたが、これも攻撃してくるソ連軍に対して直接照準の水平射撃を行い大きな戦果を挙げています。

 (高射砲は砲種不明のため写真は掲載しません)

 以上占守島國端崎附近における砲兵部隊の活躍について述べましたが、ここに取り上げた部隊以外にも各拠点に配備された砲兵隊でもそれぞれ同じような活躍をしました。また、いずれも砲兵のみならず諸兵種が協同一致してソ連軍に立ち向かったことにより、このような成果が得られたのだと思います。ソ連政府の機関紙をして「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べさせるにいたったのです。             以上


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文責 山  本  晃  三

(占守島守備部隊戦死者遺族)

 

2006.7.25作成