戦闘の経過

戦闘開始時の配備

 千島の防衛配備の項の説明の通り、占守島の戦闘開始時の配備は、任務が水際撃滅から、幌筵海峡と占守島要域確保に変更されたため、主力は幌筵海峡周辺地域に陣地を占領して來攻する敵を撃滅できるよう準備し、占守島北部と幌筵島南部はそれぞれ歩兵1個大隊基幹の兵力をもって遊撃戦闘により敵の内陸進攻を妨害するように計画されていました。

(占守島戦闘地域の地形図)

(第九十一師団戦闘開始前の配備要図(昭和二十年八月十五日頃)参照)

ソ連軍の占守島上陸計画

 極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は日本がポツダム宣言を受諾した後の、815日に北部千島列島進攻に関する作戦準備及び実施を内示しました。作戦部隊はわずか一昼夜半で作戦計画の作成と進行準備を行ったのです。その作戦計画の概要は、「817日夜占守島北東部に奇襲上陸し、主攻を小泊岬から片岡方向に指向し、18日日没までに片岡海軍根拠および全占守島を占領する」という方針の下に、約1個師団基幹の人員8,363名砲迫218門よりなる上陸部隊と、総数54隻からなる艦艇部隊で編成された部隊により、占守島上陸作戦が開始されたのです。

(ソ連軍千島上陸作戦の構想 参照)

戦闘の状況

 8月17日の午後11時57分に突然カムチャッカ砲台のソ連軍15cmカノン砲が砲撃を開始し、18日の1時ごろソ連軍の上陸が開始されました。日本軍には「敵軍が攻撃してきたときは自衛戦闘は妨げず」という通達が出ていたので、國端岬の野砲、臼砲、竹田岬と小泊岬の速射砲、大隊砲、臼砲は所在の歩兵部隊と協力して、これに反撃し、上陸用船艇の3割以上を撃沈・擱坐させるという戦果を挙げています。

(國端崎附近見取図 参照)

(平成7年度の北千島慰霊巡拝団の撮影した竹田浜・国端崎附近の写真のコピー)


 このため上陸したソ連軍は、指揮官不在、通信機水没という状況が各部隊に発生し、指揮が混乱しました。ソ連軍は指揮官不在と日本軍の火力を恐れたため、上陸後直ちに日本軍の拠点となっている國端崎や小泊岬を攻撃する任務を持った部隊までが、四嶺山に向かうという状況も生じましたので、國端崎の部隊は停戦まで大活躍ました。しかしながら、日本軍の第一線は遊撃戦闘を行うことを目的としており、拠点防御の配備を採っていたので、陣地は隙間だらけでありました。このため上陸部隊の損害が大きかったにもかかわらず、ソ連軍の先頭は6時ごろには四嶺山に進出し、ここにおいて村上部隊(独立歩兵第282大隊)主力との近接戦闘が始まりました。

(第九十一師団戦闘経過要図(昭和二十年八月十八日〜十九日)参照)

(平成17年度の北千島慰霊巡拝参加時に撮影した四嶺山北麓附近の写真)


(平成7年度の北千島慰霊巡拝団の撮影した四嶺山北麓附近の写真のコピー)


 これに先立ち、第91師団長はソ連軍の奇襲上陸の報告にもとづき、2時10分、全兵団に戦闘戦備を下令すると共に、2時30分、戦車第11聯隊に対し工兵隊の一部を併せ指揮し、國端方面に急進してこの敵を撃滅するように命令しました。同時に歩兵73旅団に対してもできる限りの兵力を終結してこの敵を撃滅するように命令しました。さらに、在幌筵島の師団主力にも占守島集中を命じました。

 戦車第11聯隊長は部下部隊に直ちに出動を命じ、逐次戦闘加入の態勢で、池田聯隊長を先頭に四嶺山北斜面か攻撃してきているソ連軍に対して攻撃を開始しました。一方歩兵73旅団は沼尻に配備されていた独立歩兵第283大隊に対して敵の東翼を求めて攻撃するように命じると共にその他の旅団隷下部隊に対して國端崎に急進するように命じました。

 戦車第11聯隊は池田聯隊長を先頭にして、四嶺山のソ連軍に突撃して、これを撃退、さらに四嶺山北斜面のソ連軍を竹田浜の方に圧迫しました。しかしながら我戦車部隊もソ連軍の対戦車火器のため18両の戦車を失い、池田聯隊長を始め多数の将校を含む96名の戦死者を出しました。

(四嶺山擱挫戦車位置要図 参照)

(平成17年度の北千島慰霊巡拝参加時に撮影した戦車戦闘地域及び残存戦車の写真)


一方、独立歩兵第283大隊は直ちに國端崎に向け前進しましたが、ソ連軍が、防備の要点である訓練台をすでに占領していることを知り、これを攻撃しまし奪還しました。しかし、ソ連軍もまたこの再奪取を目指して攻撃してくるという激しい戦闘になり、竹下大隊長が重傷を負い、戦死者が大隊副官の菅井大尉をはじめとして50名余に及びましたが、この要地を確保し、歩兵73旅団指揮下の各大隊の四嶺山南側地域への集結を援護することができたのでした。

 この間、ロパトカ岬からソ連軍重砲4門による射撃を加えてきましたが、四嶺山の日本軍重砲1門がこれに応戦し、1門でこの4門を撃破しました。また幌筵島所在の歩兵第74旅団も、その主力を8月18日夜までに占守島に進出させたのでした。

(平成17年度の北千島慰霊巡拝参加時に撮影した四嶺山東麓の残存十五糎カノン砲及び四嶺山東側台地の写真)


(平成7年度の北千島慰霊巡拝団の撮影した四嶺山北麓附近の写真のコピー)


戦闘の終結

 このような戦況で、8月18日夜は國端崎の拠点を確保し、戦車第11聯隊と歩兵73旅団主力が四嶺山の東南の地域に展開、歩兵74旅団主力がその左翼及び後方に展開し、日本軍が上陸したソ連軍を水際に殲滅できる有利な態勢の下にあったのですが、方面軍命令により、軍使の派遣・停戦交渉・武器引渡し交渉が行われ、武装解除が行われ、戦いは8月21日に終結しました。なお、この戦闘では日本軍の死傷者は約600名、ソ連軍の死傷者は3,000名以上とも伝えられています。


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文責 山 本 晃 三

(占守島守備部隊戦死者遺族)