シベリア抑留の思い出

「北洋の華」(独立臼砲第18大隊 丸山 正 氏著)の抜粋


武装解除

 占守島最北端の黒端崎が、突如砲撃を受けたのは、翌八月十八日の未明だった。

 米軍はアリューシャンを奪い、アッツ島を攻め立てた後、千島海域を我物顔に横行し、日本艦船を見付け次第に砲撃して、北方派遣軍当面の敵だったので、当然上陸して来るものと思っていた。所が敵は全く予想に反して、北方領土の接収を目指すソ連軍だった。

  中略

 この小さな島に、数万の大軍が対峠した。今眼前に居るソ連軍は、空爆や艦砲射撃を加え地上部隊を徹底的に制圧してから、上陸を敢行したのでは無い。絶え間無く銃砲声が鳴り響いている訳でも無く、又毎日血みどろの死斗が展開されても居ない。

 北方派遺軍は、日夜猛訓練を重ねた無瑕の部隊を揃え、決戦に備えでいた筈である。だが既に終戦の詔勅が下った後に、この敵を壊滅したとしても、それが皇国の護持に何の役にも立たないかも知れぬ。

 だから軍はこの戦斗の収拾に、随分苦慮したであろう、と私には思われた。白襷を掛けた軍使が、再三敵陣を訪れて交渉を行なった後、遂に我軍は、完全に敵の軍門に降ったのである。

  中略

 我軍の降伏で戦が終ると、ソ連軍の要求で武装解除が待っていた。この日は朝から小雨の中を、三好野飛行場に集結した、北方派遣軍一万七千七百有余名の大軍団は、軍司令官の指揮の下に、厳粛な皇居の遙拝式を行なって、皇室と祖国の安泰を祈願する。

 式が終ると武装解除になり、早朝から飛行場で待機して居た、ソ連接収武官の指示で、各兵器の置場が指定されると、一列に並んで一人宛兵器を置いて行く。見る間に小銃.銃剣・軍刀・拳銃と一緒に、運び寄せた各種の砲・弾薬が山の様に積まれる。

 この兵器こそ今日只今まで、陛下から直接賜わった軍人の魂として、日夜何よりも大切にして保管したものだった。その兵器を失った今は、も早軍団としての機能は全く無くなったのだ。これからはソ連軍の指示の儘に、唯々諾々と服従せねばならぬのか。何を言われても一言の抗弁も通用しない、無力の集団になって仕舞ったのか。思えぱ無念だった。残念だった。みんな滂沱と涙を流して、しゃくり上げて泣いた。

  中略

 ソ連軍は将校だけを、部隊から離して別の兵舎に集め、准士官以下で五百名単位の、作業大隊を編成した。大集団を掌握するには、五百名単位が都合が良い、と云うのであろう。

 この独立した大隊の本部には、部隊長、副官、軍医等の将校を充てたが、中隊には本部に当る要員は、一名も置かなかった。

  中略

 作業は先づ兵舎の整備で遠くの空兵舎を壊して、材科を運んで修繕を続け、舎外も毎日手を入れて整備したので、見違える程整った兵舎になった。

 兵舎の次は燃料確保だった。採暖用と炊事用の燃料集めは、這松を伐って運び着ける組と、それを切断して集積する組に分れて、これだけの者が毎日働くのだから、舎前の広場には、膨大な薪の山が次々と並んでいった。

 兵舎の整備も、燃料確保も、総て越冬の準備の筈である。

 「この調子だと、今年は千島で越冬かも知れんぞ。」

 「ロ助は年内には帰さん気かも知れんな。」

 半ば帰国を断念していた所、十月中旬突然乗船する事になった。

 「乗船だ。内地に帰れるぞ。」

 皆そう思った。無理は無い。戦は終った後ではないか。

 ソ連軍とは、大した戦斗をした訳でも無く、激しい敵愾心も持たなかったから、狡猾な彼等が企てた抑留の計画を、不敏にも推測する事ができなかった。

 それに千島では、勝てる戦を負けてやったのだから、優遇するのは当然だ、とさえ思っていた。だから乗船したら帰国だ、と勝手に決めていたのである。

 戦争は民族の自衛と繁栄のために、戦勝国が勝手に意義付けるだけで、道義も道理も存在しない。と私は思っている。

 日本の行なった米英に対する戦斗行為も、思うが儘の大陸の蹂躙も、彼等には理不尽な暴挙と見えたのであろう。しかしそれはソ連とは関わりの無い、第三国間の出来事に過ぎない筈である。ましてソ連とは、第二次大戦の長い間、日ソ不可侵条約で結ばれていたでは無いか。ソ連が独軍の猛攻に敗退し、首都モスクワが陥落寸前の時はどうであったか。日本は満州に百万の大軍を擁していたのに、条約の信義に基づいたればこそ、二つの盟邦を同等の重さに認めたでは無いか。

 それに引替えてソ連は、日本の敗色が動かぬと知るや、掌を返すように豹変して、卑劣にも火事泥棒のように、満州を侵し、北辺を掠め、孤立した北方派遣軍まで降伏させて居るでは無いか。これで充分だろう。これ以上彼の求めるものは無い筈だ。と思っていた。

 乗船した。敗れたとは云え、故国に帰るのだ。一体日本はどうなっているのだろうか。歓呼の声で送って呉れた故郷に、恥を忍んで帰るのだ。と決め、彼等の用意したソ連貨物船で、占守を出港したのである。

 時に昭和二十年十月十五日

虜囚

(1)フタロエの伐採

 海軍部隊と一緒に千名の部隊を乗せた船は、内地とは真反対の東北に進むではないか。一日毎にグングン気温が下るのが、じかに肌身に応え、夜になると北極星が真上に見えてきた。

 帰国と判断したのは誤りだった。ソ連は道義を弁えた国では無かった。交戦中の捕虜でさえ、和平が成立したら、直ぐ返還が初まるのに、終戦後に日本の領土に居る軍隊迄も、彼等は戦利品として捕えて抑留し、自国の開発・建設に利用しようとするのか。

 船は三日目の十月十八日、マガダン港の岸壁に、ピッタリ横着けにして投錨した。埠頭で船を見ていた数人の水兵が、いきなり船に乗り込んで来たと思うと、パヶッや洗面器を突き付けて、「時計や磁石をこの中に入れよ。」と強要して来た。

 差出す理由は無いが、拒む訳にもゆかぬので、彼等の求める儘に入れると、当然と云う素振りで、時計や磁石を捲き上げてしまった。話にならぬ低級なソ連兵である。

 上陸を命ぜられた。シベリアに抑留されたのだ。港には長い外套を着け、剣着鉄砲を肩に懸けた兵隊が居たが、適切な指示が出来ぬのか、徒らに時間が過ぎるだけで、岸壁に立っているのに、身震いする程寒い。タ方になると足先が疼いて、とても動かずには居られない。酷い所に来たものである。

  中略

 翌朝、第六大隊は奥地の各現場に分れて、山林関係の作業を命ぜられ、宮本隊はフタロエで、伐採作業と決めら.れた。

 フタロエに行くには、薪を運ぶ鉄道の無蓋輸送車があったが、薪を焚いて動かす小型の機関車は、力も無いし速度も遅かった。その上煙突からは火の粉がひっきりなしに落ちて、何時も注意を払っているのに、帽子も外套も焦げ穴が開き、首筋が時々火傷をした。

 天気は昨日に続いて快晴で、空は雲一つ無く晴れ渡っているが、無性に寒い。鉄道に沿った川を見ると、十月中旬なのに、川岸の木の枝や、川面に突き出た石には、水飛沫が氷結して、白い塊が光っているには驚いた。今でもこれだけ寒いとすれば、酷寒期には一体どれ程冷え込むのだろうか。

 三十四キロの停車場で、機関車の水の補給を初めた。深い井戸から釣瓶で汲み上げ、それからが又、僅かの時間では発車にならない。マガダンから約八十キロと云うのに、昼前に発車した汽車が、夕方になってもまだ着きそうにもない。

 日は暮れて急に冷え込んで釆た。暗くなって見ると、煙突から盛んに吹き上げる真赤な火の粉が、花火のように降ってくる。これでは焦け穴が出来たのも当然である。この夜異常な寒さに震え乍ら、フタロエの幕舎に入ったのは、真夜中の午前二時になっていた。

 新しい二つの大きな幕舎が、ラーゲルになっていた。翌日から芝生を切って、幕舎の周囲に積んで防寒壁を作り、便所も整えたり、生活環境の作業が終った時には、一面が真白く雪で覆われていた。

 いよいよ伐採の作業になった。早朝から待って居た監督について、見渡す限り続いた落葉松の森林に着いた。ここが現場で、道具は四人毎に渡された二人曳の大鋸と斧一丁で、作業は分隊単位である。

 現場までの途中で見た、広い曠野に延々と続いた切株は、彼等が長年に亘って、囚人に伐採させたのを語りかけて居るようだった。

 二人の現場監督が、直ぐ作業の指示を始めたが、言葉が通じないので、手振り身振りで話した所は、大体次のようだった。

 「切株は低く、枝はキレイに払い、長さは二米に切り、末口は十センチまでで、キチンと積め。」

 作業を始めたが、初心者も居るし、二人曳の大鋸は不得手で、頗る能率は挙らなかった。真冬になった。雪は毎日降り積り寒さはさすがに酷しかった。日の出が遅くなって、出発の八時はまだ暗く、午後は四時過ぎには既に陽が落ちて、作業を終る時にはトップリ暮れる。一面が真白で道筋は見えない、只前を歩く者だけを頼りに、ラーゲルまでの遠い道を黙々と歩き続けた。

 ラーゲルで柴田伍長が、「何だ、足だけ抜けて、靴下が残って仕舞った。」と云う。靴下は軍靴に凍り付いて離れない。引っ張ると、ジリッと音がして取れる。みんな帰国の予定の軍靴だから、この寒さに耐えられぬのは当り前だ。凍傷患者も増えた。

 シート張りのラーゲルは、ドラム缶のストーブが勢よく燃えていても、サッパリ暖かくならない。枕許に並べた少さな荷物は、シートの布地に固く凍り付いている。粥とスープと一片の黒パンが一日の食糧である。部屋が寒い上に、食事が水物だから、夜通し便所通いが列を為し、ストーブの周りも人垣が絶えなかった。空腹と寒さと激しい労働に、目に見えて衰弱してゆく。

  中略

 「一体どうしてこれ程働かねばならぬのか」改善震え乍する方法も見当らない。雪は灰色の空から毎日降り続けたが、その為に作業を中止する日は無かった。

 二月に入ると伐採現場が変り、河の南に移った。雪は降らなかったが寒さは愈々酷しく、河は氷結して何処でも自由に歩けた。ラーゲルは幕舎から木造の建物に変えたが、幕舎では無理だと見たからであろう。

 日足が少し宛伸びて、現場も近く、明るい裡に往復はしたものの、河面を渡る微かな気流が、痛い程顔を刺す。この道筋に僅かの人家が在った。時たま残飯を捨てるのを見付けると、たちまち列を離れ群って漁った。浅間しいが誰も止める者は無かった。

 伐採は続いたが、トラクター塔載作業が増えた。大きな橇を何台も繋いで、卜ラクターで薪を駅に運び出す作業である。この作業に出た若尾は、栄養失調で疲れ切ったのか途中で斃れ、傷ましくもその儘再び起きられず異国で悲惨な最後になった。

 栄養失調の患者は一人や二人では無い。作業を休むには医師の診断が要るが、高熱患者以外は絶対休ませなかった。腹が立つが籔医者では、体温計より他には診別ける方法を知らなかったのかも知れない。その翌目からは急に豹変して、多数の休業患者の診断を下したので、これで疲れた者が助かると思った。しかしそれも僅かの期間だった。

 作業員が急に減ると監督が黙っては居なかった。恐らく、「患者を減らして作業に出せ、こんな事でぱ計画が達成できぬ」とでも云うのであろう。拒む能力も良心も信念も無いのか、回復していない患者を作業に繰り出し、元の生活に戻って行った。

 何時の間にか雪も少し宛融け、日中だけは暖かくなった。故郷はもう春で、慌しい農作業が始まった事であろう。道筋には所々土も見え、雪融けの水が微かに流れていた。

 私は初めてトラクターの塔載に出た。大橇に上って薪の積込中に、誤って足を挾まれ、疼いて作業にならない。帰って靴を脱ぐと見る間に腫れ上り、治療で爪も抜いたので靴が履けない。

 暫く休業が続いたが、この時急に、マガダンに移動が伝えられた。

(2)マガダン

  中略

 大集団に合流した私は、軽作業で建設現場を転々と廻る間に、三年目の真冬になってきた。

 建物の床堀りに出た。尋常土でも凍結して、頗る堅くて粘い。何回も十字鍬を打込むと、やっと拳大の片が起きる。四十センチも下ると少しは柔くなるが、翌朝はそこまで凍緒しているから叶わない。能率の悪い作業だった。

 この頃山の斜面を均して、宅地造成を行なっていた。ブルトーザーでも凍土に向っては使えないので、ダイナマイトで爆破し、それからブルで押し均していた。

 作業は火薬を詰める穴堀りである。一米の穴を一定の間隔で堀る。真赤に焼いた鉄棒を打込むと、凍土は音を立てながら融けるので、杓子で掬い出しては堀り下げる。半日に一本が精一杯だった。

  中略

 この夏私達は、急に奥地に移動を命ぜられ、三度び山の作業に移る事になった。マガダンは帰還する時の乗船地である。ここを離れて奥地に移るのは、なぜか帰国から遠ざかる様だった。

 この時耳にした噂では、かつてラーゲルの大部隊を率い、悪い還境と斗い続け、全員の健康を守り抜いた、山田部隊長と本部附将校は、既にマガダンから姿を消し、どこかで留置されている。と話し、又先年私に代って寮長を勤め、ラーゲルに於ても数少ないインテリとして、集団運営に重きを為した、臼砲本部の馬殿軍曹は、彼等が特に設けた懲治中隊に送られ、マガダンを去ったと話していた。

  中略

(5)山のハツセン

 山のハツセンのラーゲルに着いた。藁布団の袋に所持品を詰め、いとも簡単に動いて居たので、枯草を集めて布団に詰めると、それで移動は完了である。

 ハッセンは、第六大隊が最初から居た所で、江原隊の者も随分多く、懐しい松崎・土肥・神田・宇佐美等総てここに居たか、凍傷で黒ずんだ痛々しい顔は、街では見られぬ作業の厳しさを想像させた。

 作業は予想の通り伐採である。三年の苦労で素晴しい技術を身に着け、中には日量十立米を伐り続ける者も居た。個人単位の作業だから、いつの間にか連帯感も協同精神も失なわれて、自己中心の個人主義に変っていた。

 ノルマによる作業量を要求されたので、自分の作業量を消化すると、早々に帰る者もあり、作業が進まなくて、時間一杯働く者も居て、朝は揃って出掛ける作業員が、帰りは毎日別々だった。

  中略

 シベリヤに又冬が来て雪も積り、冬山の伐採になっていた。作業の出来高が鮮明に色別けされて、それが食事の糧に跳ね返るだけでなく、民主活動のオルグは、低能力者を批判するようになった。

 伐採現場は森林を片っ端から整理したので、条件の悪い所も少なくはない。監督は現場を充分見た上で、似合うノルマを適用せねばならぬのに、最下級監督は、それに適応する能力が無いので、ノルマで監督に交渉する事も度々である。

 ラーゲル西の森林に移った時である。立木は疎らで、条件は悪いのに、ノルマは四・二立米だと云う。とても消化できるものではない。

 「四・二立米は高過ぎる。四立米でも無理だ。もっとノルマを下げて欲しい。」と要求しても、一向に聞き入れない。

 「そんなノルマなら作業長はやれない。止めます。」

 私はその翌日から、作業員として作業に出た。伐採は初めてではないし、手順も要領も心得た積りだが、毎日の作業はさすがに骨身に応えて来る。

 身上調査が行なわれて、憲兵と警察官が槍玉に挙げられた。天皇制護持の目付役として、人民を圧迫したとでも云うのかも知れない。作業能率の上らぬプロホラボータは、ソ連の要求に対して、快く応じて働く気がない、と見たのかも知れない。両者は共に懲治中隊に送られたのである。

 これらはソ連が行なった形ではあるが、集団の中に協力する者がいるようで、実に不愉快だった。と共に、いつも監視されているのが、集団を一層暗くした。

 トラクター塔載にも、汽車の塔載にも出た。汽車の積込は作業時間が頗る不規則で、真夜中の事も少なくはない。停車場には薪が山の様に積まれ、汽車は塔載を待って直ぐ発車していた。日本兵の供給する血の滲むような薪で、マガダンの市民生活は支えられていた。

 この冬私は、ここから更に奥地の、チョルブハの懲治中隊に送られた。

 「愈々来たな」

 何れは辿る道だと思って居たから、別段驚きもしないし、悲観はしなかった。しかし単に遠く奥地と云うだけでは無く、名前から受ける印象が甚だ不気味だった。これで大集団と共に帰国は出来ないかも知れない。十数名の一行は、吹雪く曠野をチョルブハに向って歩き続けた。

(6)懲治中隊

 私達は、懲治中隊と云われる、チョルブハの収容所に着いた。ラーゲルには久保部隊長、宮本隊長、陸海軍の将校・准士官は勿論、岡山の黒田・小原・渡辺等も居て、初めての収容所に来た気はしなかった。

 臼砲の馬殿の姿が見えぬので尋ねると、既に昨年の夏病没と聞き、異国の曠野で淋しく斃れた、痛々しい最期を想像しながら、冥福を祈るだけだった。マガダンで集団を統括した、山田部隊長や副官は、ここでも見受けられないから、或は特別の場所に留置されているのかも知れない。

 懲治中隊と云うから、どの様になるのかと警戒したが、何の事はない普通のラーゲルである。別に変った洗脳工作も、思想教育をする気配もなく、普通の作業監督が附添って、普通の作業を求めていた。

 只寒さは異常に厳しく、ストーブが燃えないから出て見ると、煙突の煙は屋根を伝って下り、静かに雪の上を這っている。この煙が上に昇らないと、気持ち良く燃えないが、それは太陽が昇り、寒さが緩んでからである。

 ここに収容された幹部は、ソ連の厳しい要求と監視を直接に受けながら、部下の信頼と期待に応える為に、どれだけ心を砕いた事だろう。民主化が進み、指揮能力を失った後も、皇軍幹部としての名誉と品位にかけて、誰も認めはしない誇りを守るのに、他人には判らぬ苦労を重ねた事であろう。今は一切から解放された、同じ立場の者同志のせいか、最悪の還境でありながら、却って明るい表情が見えていた。

 殺人的な寒さの中で伐採作業に出た。山に囲まれた収容所だから現場は近いが、柔い雪が自由に動けぬ程積もっていた。珍しく大きな風倒木もあれば立ち枯れもあり、乾燥地帯でよく乾いていたから、楽に作業の捗る事もあった。

 ラーゲルの入口に寒暖計が下っていた。これは初めての事である。四十度迄下る事は珍しくはなく、この寒暖計が零下三十度に上る迄は、毎朝舎内で待機する事になっていた。時には陽が高く昇り、十時を過ぎてから作業の事も有ったが、この様な日は特に、午後も早くから冷え込むので、酷い寒さの中で作業する日が続いた。

  中略

 どうした訳か急に給養が改善されて来た。食事の量が増え、賃銀も順調に支払われて、ココァ・砂糖・煙草がラーゲルで販売される事もある。

 飢じさが去り、次第に健康を回復すると、苦しんだ伐採も、余り苦痛では無くなった。

 彼等は「日本軍の捕虜には、充分食物も賃銀も与えて、万全の処置をした」

 と云う積りかも知れないが、今更急に機嫌取りに、腹一杯食わせた所で、何でこれまでの苦しみが帳消しになるものか。

 ラーゲルに、ソ連共産党史・スターリン演説集が置かれて、自由に読む機会が作られ、間もなくオルグが講師になって、夜間学習会が開かれだ。

 学習は党史によって進め、革命の過程を通して、マルクス・レーニン主義の理論展開をしていたが、難解の所は平易な比喩を引用しながら、初心者にも判り易く講義をしていた。

 日本では、共産主義は最も危険なものとして警戒し、主義者はことごとく投獄し、出版物は押収して厳しく出廻るのを監視したから、どのようなものかは、勿論知る方法もなかったから、これだけは興味をもって聞く事ができた。

 なぜか私は、世の中が判らなくなってしまった。理想の社会建設を説くソ連は、日本に対してはどうであったか。日ソ不可侵条約を一方的に破り、北辺を擦め、日本領土にいる軍隊まで抑留した。国内では大量の囚入を作って辺境開発を進め、隣接した欧州諸国の解放も行なわないではないか。

 正義人道を口にする米国では、優越感の白人は横暴を極め、有色人種を虫ケラのように圧迫する。

 日本は皇道宣布を高く揚げてはいたが、自衛を理由に、勇敢な軍隊を駆使して、恣しいままに、隣邦の侵奪を続けて恥じなかった。

 国力の伸長と国益の増進だけを求め、術策に終始する国際間では、道義や信頼の存在しないのは、当然とでも云うのであろうか。無理を平然と通すソ連から、事の道理を聞く事自体に、内心抵抗を覚えるのであった。

 八月に、マガダン集結が伝えられた。

(7)洗脳工作

 マガダンに集結して見ると、ラーゲルの様子が全く変っていた。かつての山田部隊長に代って、若いオルグが大集団を指揮して、一糸乱れぬ統制が行なわれていた。

 相変らず作業だった。が全く違うのは、新指導者の行なう朝の行事である。彼等は毎朝高い壇上に立ち、社会主義社会謳歌の大演説を、何のためらいもなく堂々と行なっていた。

 それが終ると出発で、全員が声高らかに革命歌を歌いながら、作業現場に向う長い行進が始まる。まるで全員が、生れ代った革命の戦士に仕立てられているようだった。

 帰国の見通しの付いた現在、些細な事で彼等に誤解されて、「廻れ右」になっては叶わない。皆注意深く言動を慎しみ、羊のように従順で、誰一人として異論を口にする者はいない。

 乗船の日取りが決ったからか、バザーも開かれ、地面の敷物に、時計・鞄・煙草・チョコレート等が、豊富に並べられて、縁日の露店のようだった。給養係は、極微量ながらアルコール飲料も用意して、野外の会食も開いた。

 誰か計画したのか、スターリンに対して、「帰国後は日本共産党に入党し、社会主義社会の実現に貢献する」誓約書を、全員連名で差出す事もした。これで集団の洗脳工作は、好成果を以って完了した、と云う訳かも知れない。

 集団の帰国準備は進んだが、山田部隊長等の姿は、遂に最後まで見掛ける事は出来なかった。

 待望の乗船である。長かった桎梏から解放されて、内地航路の基地ナホトカに向ったのは、抑留されてから満四年を経た、昭和二十四年九月である。

 船は三日目にナホトカに着き、道筋のコスモスを見ながら、港に近い大収容所に入った。

 各地区の部隊が、一応はここに集結し、船便を待った。日本航路の基地だから、大集団を収容するに相応しい施設で、入口に掲げられた、大スローガンを見ただけで、最終仕上げの熊勢が現われていた。

 マガダンから来た集団は、乗船が延びたので、直ぐ別の作業現場に移動して出かけたが、私は診断の結果休業で、ここでも又ラーゲルに残る事になり、健康が回復してからは、附近の街作業に出ていたが、さすがに休ませる事を知らない、労働の国である。

  中略

 十月十八日、待望の日本船二隻が入港したので、集団は海岸で二隊に分れ、私達は英彦丸に乗船した。誰も甲板に上って、ナホトカを振返る者は居なかった。二度と見度くないソ連であった。

 千島の海で戦死した多くの戦友

 長かった四年の抑留

 異国の丘で果なく散った戦友

 地獄の様なフタロエの伐採

 強烈な記億が次から次えと、頭の中を走り抜ける。

 舞鶴の復員事務所で数日を過した後、いよいよ帰郷である。かつて「俘虜用郵便はがき」が渡された時、発信したものかどうか、随分迷った挙句に、恥を忍んで消息を伝えた家族の下に、七年振りに帰るのである。隠し切れない喜びの反面、祖国防衛の戦士として、盛大に送って呉れた郷党に、生き恥を晒して帰る苦しさに、身の細る思いで郷関の土を踏んだのである。

終わりに

 日本に帰って不思議に思ったのは、各方面に出ていた軍人が皆帰って居るのに、ソ連抑留者だけが、どこよりも遅れて帰った事だっだ。

 支那には計り知れない損害を与え、米英には先制攻撃を掛げただけではなく、長期に亘って熾烈な戦を交えたのに対して、交戦国では無かったソ連だけが、どの国よりも長く抑留したのは、何としても理解ができなかった。

 徹底した利己主義を丸出しにし、陰険、破廉恥、道義を弁えぬソ連に対し、限りない憤りを抱いているのは、私だけではないのではあるまいか。

 更に驚いたのは、日本の百八十度の転換だった。軍国王義は完全に消え失せ、文化国家に生れ変るのだと、村の指導者は口を揃えて歌い、風当りは冷たかった。

 その筈である。無理はない。戸数六百の小さな村に、百数十名に上る戦死者である。大切な息子、夫、父、兄、弟が永久に帰って来ないと云うのに、最低の軽蔑すべき捕虜軍人が帰ったのである。

 気の廻し過ぎかも知れないが、

 「何の役にも立たぬ無駄な戦に、勝手に出ていたのだ」

 と云わんばかりに受けとれて辛かった。だから努めて戦争の事は忘れようとしたし、近親者以外には、体験を語るのを避けていたので、鮮烈な印象も殊更に薄れていたのである。

 只誰にも知られずに、北洋に散華した戦友の芳名は、何としても伝えたかったし、又隊の戦友に対しては、

 「長い抑留の生活を通して、何の役にも立てなかった」お詫びをせねば、気が済まなかった。

 星霜流れて二十数年を経たこの春、部隊の戦友達がよく纒って結束し、陣没英霊の顕彰碑を建てる事になったので、顕彰の一助にもと思う気持で、記憶を呼び戻しながら小文を綴り、碑前に供して御遺族に贈る事にしたのである。

 尚ご協力を賜わった江原隊長に、深甚の感謝を捧げつつ稿を終る事にする。

昭和五十年二月        

旧独立第十八大隊第一中隊  丸山 正


(参考 マガダン地区略図及びハッセン収容所図(独立臼砲第18大隊誌「無窮」土井喜好編 よりコピー))


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文責 山  本  晃  三

(占守島守備部隊戦死者遺族)

 

2006.7.25作成