戦闘終了後の状況

 占守島の日本軍はこのように8月21日に武器をソ連軍に引渡しました。その後、この占守島に上陸したソ連軍が、8月26日に松輪島、8月31日に得捉島の日本軍を武装解除しました。そして樺太から来たソ連軍が、択捉島の日本軍を8月29日に、色丹島・国後島・歯舞群島の日本軍を9月1日から4日までの間にそれぞれ武装解除しました。

 その後ソ連軍は、これら武装解除された日本軍の兵士を、ポツダム宣言にうたわれた、「日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。」との条文を無視して、シベリアなどのソ連領内に連行し、数年にわたり極めて悪い給養の下で強制労働に従事させました。そして、その一割の兵士は栄養失調と疲労のため亡くなったのでした。生き残った兵士の大部分は1950年(昭和25年)春までに逐次帰還しましたが、遅い兵士の帰還は1956年(昭和31年)末にまで及んだのでした。

(占守島での戦闘参加者が連行されたマガダン地方の地図及び最悪の収容場所ヒニカンジヤの写真)

(平成5年度のマガダン遺骨調査時に発掘した遺体の写真)


(北千島慰霊の会アルバム「鎮魂」よりコピー)


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文責 山 本 晃 三

(占守島守備部隊戦死者遺族)