千島防衛の歴史

1875年(明治8年)、明治政府は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けたことにより、千島列島は正式に日本領土となったのですが、防備は行いませんでした。

 1940年(昭和15年)に北千島要塞の施設が陸軍によって幌筵島に建設されたのが、千島における最初の防備設備の整備でした。海軍も同じ頃、幌筵島・松輪島・択捉島に飛行場を逐次整備しました。1941年(昭和16年)6月の独ソ開戦により、陸海軍共に実質的に部隊の配置を始め、同年12月の日本の対米開戦、及び1942年(昭和17年)のアリューシャン作戦(アッツ島・キスカ島の攻略)により、逐次に北千島兵力の増強(計1個聯隊級)及び中千島・南千島への兵力の配備が行われました。1943年(昭和18年)5月アッツ島守備部隊の玉砕とキスカ島守備部隊の撤退により、北千島は対米防衛の第一線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、師団級の守備隊に増強しました。中千島・南千島にも兵力の増強が行われました。海軍もまた、航空艦隊を含む北東方面艦隊を編成し兵力を増強しました。1944年(昭和19年)に入るとアリューシャンからの米軍機の空襲が次第に激しさが加わる等の戦局が緊迫したため、3月には千島方面防衛のために第27軍司令部を新設し、北千島には戦車聯隊を含む兵力が増強され、同年5月にこれら増強部隊と占守島・幌筵島に既配置の部隊を合わせて第91師団が編成され、第91師団には北千島に侵攻する敵の撃滅を任務として与えられました。更に北千島温禰古丹島に新たに1個海上機動旅団を編成して配置しました。また、中千島にも新たに1個師団を編成して配置し、南千島にも新たに1個旅団と1個海上機動旅団を編成して配置しました。 ところが1945年(昭和20年)に入ると、本土決戦準備のため、前記の2個の海上機動旅団を始めとして、陸軍航空部隊・海軍部隊のほとんど全部、さらに第91師団からも多くの部隊が抽出され、内地に転用されました。この結果、第91師団の任務は、「幌筵海峡周辺地区及び占守島の要域確保」に変更されました。なお、この転用のための海上移動の間に、多くの部隊が米軍の空襲・魚雷・艦砲射撃等で海没し、損害を出しています。

 最終的に、終戦時には占守島及び幌筵島に1個師団(第91師団)、松輪島に独立混成連隊(独立混成第41聯隊)、得撫島に独立混成旅団(独立混成第129旅団)、択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島に1個師団(第89師団)が配置されていました。

 なお、第91師団及び第89師団は旭川で編成され、独立混成第41聯隊及び独立混成第129旅団は札幌で編成されています。いずれも北海道の郷土部隊です。

図 千島列島の配備 参照


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文責山 本 晃 三

(占守島守備部隊戦死者遺族)

 

2006.7.25作成